雨の日にロードで走り出すというのは気が引けるものだ。細いタイヤはさらにスリップしやすくなり、ブレーキも効きにくくなる。レインウェアが蒸して不快だし、バイクが濡れて錆びやすくなるのも良い気分ではない。家で大人しくしているほうがどう考えてもいい。
しかし、天邪鬼な人間はそうは考えない。天気が悪い日は人が多いコースでも閑散としている、と逆に喜ぶ。
東京近郊のヒルクライムスポットはどこも人気で、休日にはグループで談笑しながら走る人たちが多く現れる。自分はそういう場所はどうも苦手だ。自転車は基本的にひとりで乗るものだと思っている。だから、微妙な天気の日はむしろ狙い目だ。道を独占しやすい。
本降りになるかもしれないし、ならないかもしれない。そんなギリギリの天気予報のときは林道に行くのが好きだ。霧がかっているくらいのときの、静謐な雰囲気が本当に良い。元気に切磋琢磨するヒルクライマーたちはもちろんのこと、週末を楽しく過ごす登山客も、エンジン音を響かせるモーターサイクルもいない。
自転車のいいところは、とても静かなところだ。野鳥や虫の声と、自分の心臓の音だけが聞こえる。雨が降っても、夏の間であれば寒くない。小雨くらいだと、顔に当たる雨風がひんやりとして気持ちがいい。登坂での体温の上昇が抑えられるような気がする。
自転車の乗り方は、人によって好みがあり、3種類くらいに分かれるように思う。
まず、日常の足。交通手段としての自転車。
次に、誰かと楽しむアクティビティとしての自転車。競技的であれ、ツーリングであれ、誰かと走って楽しむような遊び方。
最後が、孤独に黙々と乗るスタイル。ブルベにもそういったところがあるが、参加者間でコミュニケーションをとったりがけっこうあるし、連帯感が生まれているように見えるから、個人的には↑の範疇なような気がしている。だからここで言うのは、もっと本当に孤独な、純然たるソロ、ということだ。一切の人間的なつながりを拒絶するように自転車に乗る。
『かもめチャンス』というロードレースを扱ったマンガに、まさにそういう乗り方をする人物が登場する。作中では「周りのあらゆるものが嫌いだったんだろう」「ペダルを踏んでいる間だけ“無”になれたのだ」「ロードタイヤの接地面積は指1本分ほど。その程度でしか他者と関われない」などと評されている。
日常生活では何かしら成し遂げることをいつも期待されるが、自転車に、坂道や林道、山岳は人に何も求めてこない。運動不足の解消にはなるが、社会的に有意義と言えるようなことは何もない。
自分はひとりで自転車に乗っているときの、断絶感が好きなのだ。心拍が高まっていくにつれ、いろんなものが抜け落ちていく。どんどん山奥に分け入っていく。社会と隔絶されていく。誰もおらず、人間関係もない。高負荷の中で思考はどんどん失われていく。以前話をした方が「自分はヒルクライム中に“回転になっている”と思っている」と言っていたが、これは自分もそうだと思う。
何も考えられなくなって、それでもただただ無意味にペダルを回すようになる。いわゆるゾンビ走法のことだが、自分はあの状態がとにかく好きだ。日常を有とするなら、自転車は無と言えると思う。
霧がかった林道は、先が見えず、何があるかもよくわからない。映画『ミスト』のような、五里霧中な感じ。
東京の林道は、ほとんどがピストンであり、どこにも通じていない。自分は反対側に下れない“単なる坂道”はあまり好きではないのだが、夏の小雨のときだけはそういった道の「どこにもいけなさ」が逆に味わい深くなる。がんばって、がんばって、でもドラマチックな経験は得られない。行き止まりで、展望もない。ホラー映画やクライムサスペンスのバッドエンドのような幕切れ。
すべてのあがきは無意味だった、とでも言いたくなる。そういうカタルシスが、自分は嫌いではない。
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